文章とデッサンの共通点
デッサンは始めにモチーフのカタチを紙に上にとっていく訳だけれど、同じカタチでも見る人によって異なる。さらに対象物を完璧に正確に描くのは、3次元のものを2次元の紙に写す時点で不可能である。大事なのはどれだけ正確に自分の印象に近づけるかだと思う。デッサンは鉛筆とネリ消しの両輪で成り立っている作業で、ある輪郭を描くのに、まずはラフに何本もの線を重ね、ネリ消しで不要な線をそぎ落とす。その作業を何度も何度も繰り返しては感覚に合うカーブを探して行く。
文章を練って行く作業もそれに似ている。言いたいことはたいてい最初のうちはピントが合っていない。表現の対象はデッサンと同じ2次元ではないからだ(3次元であるかどうかも分からない)。それを時系列にならぶ一次元の言葉に落とす必要がある。言葉を紙に落としながら、より自分の感覚に近いニュアンスを探す。同じ意味をさす表現のバリエーションを探しては書いて、消しては書いてを繰り返し、徐々に表現の精度を上げてゆく。
■完璧なものは存在しない
ダビンチのモナリザは死の直前まで筆を入れられていたという。絵画に完成品はないとも聞く。つまり、やろうと思ったらいつまでも修正を入れたくなるものなのだ。作品をいったん仕上げたものの、全体を改めて眺めると、細かい所にいくつもの不満点が出てくる。目の形が少々おかしいとか、全体のバランスがちょっとおかしいとか。文章も同じだ。あの川端康成でさえ「雪国」の中のとある一文に不満を持っていた。けれど、わずかに短い一文でさえ修正してしまうと、すべてのバランスが崩れてしまう。仮にも一度仕上げたならば、次の作品へと向かうべきだ。「次こそは完璧な作品を。」という作家やアーティストの姿勢に学び、今回の失敗は次回作のモチベーションとして使うのが正しい。
■小さくてもいいから仕上げるべき
これはデッサンや文章に限らない。何かの仕事を手がけたならば最後までやり通すことが大事だ。例え結果が失敗でも満足の行かないものでも、作業を途中で投げ出した人間には永遠に手に入らない経験を得ることができる。
最初から大きな作品を手がけると途中で挫折する。小さくていいから完成品を作ることだ。それが自分自身の中の基準になる。次回からはそれと比較しながら自分の成長を確かめることができる。また、積み重ねてゆけば、自分にできること、できないことが徐々に分かるようになる。
■自分自身を知るためのツールである
ものを作る前は自分の作りたいものがどんな形かは分からない。ものを作ることとは、それを模索してゆく過程そのものだからだ。ごく一部の天才をのぞき、たいていの人は頭の中に完成品を持っていない。
P.F.ドラッカーは「著作を書いた後に、初めて自分の言いたいことが分かる。」と言った、あのリチャード・ファインマンは「僕は思考を紙に記録したのではない。紙の上で思考したんだ」と言ったという。
デッサンはモチーフが目の前にあるけれど、出来上がらないと何が紙の上に現れてくるかは分からない。結果としてモチーフに感じた美のほとんどを表現できてないことが多い。けれど、モチーフのどこに美を感じるのかに対して、時間をかけて丁寧に感覚を辿ったことによって得られる発見がある。自分の好みに対してより理解が深まる感覚といっていい。
文章を綴って行くプロセスもまったく同じだ。書いたことに多少でも違和感が有る場合は削られてゆく。感覚的にピンとくるものしか最終的には残らない。そこに残ったものはその時点の自分自身そのものと言える。
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